この場所の思い出
昭和42年生まれです。 阪之上小学校に一時期通っていました。 冬には雪まつりを校庭でやりました。 最後に何かを燃やしてスルメを焼いて食べた記憶があるのですが・・・よく覚えていません。 校舎の裏庭には小さな山があって、そこでスキーの授業もありました。 一年生の頃は、教室は石炭ストーブで温めていて石炭を体育館までバケツで取りに行った記憶があります。
昭和42年生まれです。 阪之上小学校に一時期通っていました。 冬には雪まつりを校庭でやりました。 最後に何かを燃やしてスルメを焼いて食べた記憶があるのですが・・・よく覚えていません。 校舎の裏庭には小さな山があって、そこでスキーの授業もありました。 一年生の頃は、教室は石炭ストーブで温めていて石炭を体育館までバケツで取りに行った記憶があります。
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川崎に住んでいたころ,よく店の前を通って出勤してました。何か懐かしさを感じるレストランでしたが,まだあるのでしょうか?
干場の交差点(フジ理容室がある)から川崎方面に行く道は私の生活・通勤経路でした。(28年くらい前です。)レストランムービーと眼科医院を通り過ぎて橋を渡ると左側にヤマザキデイリーストアがありました。三叉路の交差点にはスーパー(ツチダ?原信?)がありました。今は変わっていますか?
担任の先生が、たしか・・・「消えたおじさん」と言う本を読み聞かせてくださいました。もう57歳になりましたが、小学校低学年の頃の思い出で記憶に残っているのです。今石川県金沢近郊に住んでいます。「ながおか」は心のふるさとです。
♪赤城神社の神主が、 おみくじ引いて申すには、 今日の勝負は白の勝ち勝ち!(赤の勝ち勝ち!) これを運動会の時に歌いました! 小学校と中学校1年が一番楽しかったなぁ〜 昭和時代を過ごせてほんとよかった!
四郎丸小学校に通っていて、昭和48年(1973年)、当時、小学校4年生だったと記憶していますが、創立100周年を迎えました。 その際に、空中撮影で人文字で記念撮影をして、更に、皆で手紙や絵とかをタイムカプセルに入れて、グランド脇のプールの傍にある遊具場に埋めた記憶があります。 そこには、トーテムポールもあったと記憶しています。 今は、どうなっているのでしょうか? どなたかご存じないですか?
ちょうど、新校舎建設時に在校していました。旧体育館をしきって教室にしていましたが、大雪が降ると窓が埋まってしまい、真っ暗な中で授業をやっていたことを思い出します。この道一筋の、鋳造マンや、鍛造マンなどがチョー懐かしい。。
木造の古い校舎が、東神田だと思うが、昭和30年代末まであったっけ。附属幼稚園・小学校・中学校。確かその隣に東北中学の木造校舎があったような。昭和40年ころに火事でみんな焼けてしまったなあ。あの時の火事のすごさは今でも思い出すよ。自分が通っていた校舎が燃えて落ちるのを固唾をのんで眺めていたっけ。
今年は豪雪です。思い出すのは昭和38年の豪雪。当時小学3年生でした。電線を足元に見ながらの通学、雁木の中は昼でも真っ暗闇、家は2回からの出入り。新発田の自衛隊が火炎放射器で消雪を試みたりして、子どもにとっては楽しい毎日でしたね。大人たちは大変だったけれど。
1988年から10年間、長岡市で育ちました。 当時坂之上小学校付近に住んでいて、夕方になるとプープープッと笛をならしてリヤカーで豆腐を売りにくるおじいさんがいたのを思い出します。寒い雪の日も来ていました。よくおつかいをたのまれていました。誰か覚えてる方いるかな〜。
東北地方のある大学に進学したとき、自己紹介をすることになりました。私が「新潟県立長岡高校出身です」と言って名前や抱負などを言い終わると、学科主任の先生から「では君は山本五十六の後輩なんだね」と間髪をいれずに問われたのでびっくりしました。そのほか河井継之助の話や戊辰戦争の話を良く知っているので、何でだろうと思っていたら、その先生は会津若松の生まれだと言うことでした。会津の人たちは長岡人に親近感を抱いているのは本当らしいです。
長岡出身者なら誰もが「懐かしい」フレンド! なかでもマルセンの地下の店は、数あるフレンド店舗のなかでもスタンダードでしょう。 県外の人に、イタリアンの話しをして、 「焼きそばにミートソース!?なんじゃそりゃ?」 とひかれてしまった経験、あるんじゃないですか?
ご存知、長岡の偉人の一人「山本五十六」の銅像があります。 「山本五十六元帥」は、逆境をバネに海軍大将まで上りつめた人。また、戦時中の日本にあって先見の明を持った人物で、日本の軍事力の限界を予見しながらも、祖国のために軍人に身を処していた、なんだかカッコよい、長岡が誇る歴史上人物ではあるのですが・・・ この公園は、薄暗い中に銅像がドドーンとそびえていて、ハッキリ言ってかなり不気味でした。 子供の頃、大手通での買い物の帰りに、この公園に迷い込んだときは、マジで泣きそうになりました。 今は、記念館ができたことですし、あの頃よりはオープンな雰囲気になっているのでしょうか? 今度行ってみよ。
駅ビル、セゾン(ちなみに今のココロです。)の1階にあったおもちゃ屋さん。 スイッチを押すとビリビリするライターや、パッチンガムなど、普通のおもちゃ屋では売っていないような、ちょっと「(健全な)大人のおもちゃ」がいろいろと売ってました。 そういえば、マスカラスなどの覆面レスラーのマスクなんかも、かなり質の良いものが売ってました。 でも、なんて名前だったのか思い出せません。 誰か知ってたら教えてください。
「男子は、入っちゃダメ!」 という店。 何が売っていたのかは、今もって謎。
階段を上がると、電車の模型のジオラマがガシャガシャと走り、レジの奥には「ディスクシステム」の書き換え機が・・・ 懐かしい、長岡のチビッコの夢の世界でした・・・
長崎屋の中にあったレコード店です。 当時の音楽CDの販売における付加価値として主流だった、 「一枚買うとスタンプ1個、10個たまると500円割引」 というサービスに対抗してか、この店では、スタンプカードが無いかわりに、いきなり50円引きというスタイルでの販売でした。 当時の同級生であり、脱がせ麻雀のツワモノだったA君によると、 「ここでCD買って、ういた50円で、上の階のゲーセンで麻雀やる」 というのが、長崎屋の正しい利用方法だそうで・・・
どちらかというと90年代初頭の思い出なんだけど・・・ 100円なのに、普通の店の3倍近くトグロをまいてるソフトクリームが食べれるお店。 たしか向かいに「たんぽぽ」という店があり、そことソフトクリームの大きさによる、激しい集客合戦を繰り広げていました。 原価度外視で集客合戦を繰り広げる様は、まさにデフレスパイラルの先駆け(?) けど、焼きソバなどの、他のメニューのボリュームの差と、おばちゃんのキャラクターで、ピーコックファンの方が多かったような気がします。
まだ、パソコンが一般的ではない頃、何やら畏敬の念をもって眺めていたのを記憶しております。 どう考えてもファミコンのゲームのほうがクオリティが高いのに、それでもMSXでゲームしているヤツは、妙に尊敬されてた。
コメント一覧 (3)
なにかを燃やしては「さいのかみ」だと思います。毎年1月にありましたね。藁とか燃やしてましたから。全国的に言うと「どんど焼き」?にあたると思います。 校庭の裏の山はみつば山ですね、今考えると小さな山ですがあそこでスキーやってましたね。
さいのかみですね。1年間書いた習字をもやしたり出てきた炭を顔に塗ると健康に過ごせると言ってつけあったりしましたね! もーえろーよもーえーろーさーいのーかみー ってうたいながらやった記憶。
昭和56年、自分が6年生の年は稀にみる大雪で、校庭に2mを超える雪が一面に積もったと思います。 雪まつりでは、用務員さん(2人いらした)が、迷路を作ったり、かまくら作ったり、体育館から落ちた雪の斜面でそり(スノーボート)場を作ったり、塹壕つきの雪合戦場を作ったり、大いに盛り上がりました。クライマックスは、歳の神。スルメ、餅、を笹の枝に付けて焼いて食べました。 みつば山では、ミニスキーを長靴にくくりつけて滑りました。 4-5年前、小学生の子供を連れて里帰りついでに尋ねたら校舎がりっぱになっていてビックリ。みつば山はなくなり、伝統教室はパワーアップしていました。