この場所の思い出
幼い頃(S36〜)、リヤカーを引いてオバサンが近所(西新町地区)に毎朝取立ての野菜を戸別に売りに来ていました。「母ちゃん!何かいらねぇかのぉ」、「キビと枝豆もらうこっつぁ」・・こんな会話を毎朝交わされたいたことを思い出します。その後、就職で上京して帰省した時(S57)、同じようにリヤカーに野菜、果物を載せて近所を訪問する行商人のオバサンを見かけたのですが・・・・もちろん今ではいらっしゃらないでしょうね?振り返れば、あの行商人のオバサンは何処からきたのだろうか?
幼い頃(S36〜)、リヤカーを引いてオバサンが近所(西新町地区)に毎朝取立ての野菜を戸別に売りに来ていました。「母ちゃん!何かいらねぇかのぉ」、「キビと枝豆もらうこっつぁ」・・こんな会話を毎朝交わされたいたことを思い出します。その後、就職で上京して帰省した時(S57)、同じようにリヤカーに野菜、果物を載せて近所を訪問する行商人のオバサンを見かけたのですが・・・・もちろん今ではいらっしゃらないでしょうね?振り返れば、あの行商人のオバサンは何処からきたのだろうか?
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1988年から10年間、長岡市で育ちました。 当時坂之上小学校付近に住んでいて、夕方になるとプープープッと笛をならしてリヤカーで豆腐を売りにくるおじいさんがいたのを思い出します。寒い雪の日も来ていました。よくおつかいをたのまれていました。誰か覚えてる方いるかな〜。
台町にある「うがわ亭精肉店」を訪れた方はいらっしゃいますか? 現在37歳の私が小学校低学年の頃、亡き祖母と「うがわ亭精肉店」でよくポテトサラダを買いに行きました。 このポテトサラダが凄く美味しい! 店内に緑色のベンチがあり、私はそこに座って 早くポテサラ食べたーい!って祖母に急かした記憶があります(笑) 長岡を離れて数十年、あの味を子供にも食べさせてあげたい。私も食べたいな(笑) まだお店は営業されているのでしょうか?
日赤町のお肉屋さんなのですが、コロッケやメンチかつ、サラダとかお総菜が美味しかったです。 子供の頃お使いに行かされましたが『○○ちゃんにおまけ』って言われて戴くコロッケがすんごく嬉しかったです。 おじさんは少し気難しそげで(ごめんなさい・・)おばさんは優しそうで愛想も良かったです。 今でも営業していられるのでしょうか?
精肉店。肉一のコロッケが食べたいなぁ 昔・スーパーが出来る前の各商店街は活気があったよね 肉一のコロッケもその一つであった、昼時は近くのOLが買い、夕方は主婦が買い長い列が出来てました、俺もよくかったよ
長岡を離れて30年。早弁してなくなった弁当の代わりの昼飯、部活後に毎日寄っていた、長高前の旭屋。昔はうどんとかも出してました。旭やサイダー、野菜パン懐かしいなぁ。夜は値段をまけてくれたばあちゃんとじいちゃん、懐かしいー。
笹崎のマスカレード、よくランチしに行きました。プレートランチでしたよね。 とても美味しく、おしゃれな店内で、赤いソファーが好きでした。 某保育園の先生とお付き合いするかしないかみたいな微妙な関係でデートしたのが一番の思い出。先生の誕生日プレゼントに、マスカレードで食事して、シャネルの「クリスタル」をプレゼントした記憶があります。 殿町にもありましたね。 殿町で「赤ちょうちん」の2階でまずアルコールと食事で準備して、大手通りを何周か周り、声をかけたりして「マスカレード」に行くか、「スタージュス」(殿町の方の)に行くのが定番でした。 成果がない場合は、そのまま打ちひしがれ、「どさん子」の「カレーラーメン」を食べて解散、成果があった場合も「カレーラーメン」を食べ、明日のドライブの予定を立てるという、ある意味「アメリカグラフティ」みたいな、田舎の青春時代を過ごしていました。 もう東京にいる年月の方が長くなってしまいましたが、長岡の青春時代は楽しかったです。
今は無き長崎屋の最上階。 直通エレベータがあって、そこから直に上れた。 レーンは、普通のボウリング場よりも明らかに短く、さらに微妙に「かしがって」いて、球がナチュラルに変化するという、非常にクセのあるボウリングが楽しめる場所でした。 あの頃は、スコアはすべて手書き。 それと、これはうろ覚えですが「パーフェクト賞は、オロナミンC一年分」とかいう横断幕がデカデカと飾られてたような覚えが・・・
CD全盛期にレコードの針とかを売っていたマニアックな店。 私は良く知りませんが、長岡では、かなりの老舗だったんでしょうか? 他の店では売切れてるような人気のCDとかが、普通に売っているような事もあり、結構お世話になりました。
オシャレはよくわかんねぇけど、とりあえず「かあちゃんが買ってきた服だけは着たくねぇ!」 という、ちょっとシャレっ気の出てきた、小生意気な男子中学生が服を買いに行く店。 ちなみに、今はイーオンかなんかになってます。 わたくしも服買ってました・・・。
半端モンがボンタン買う店。 中学のときは 「池津屋に行くと、○○さんに、覚張の脇に連れ込まれて金とられるぞ」 という噂を真に受けて、こっそりココで、ボタンの裏の「留め具みたいなモノ」(正式名称忘れました)とかを買ったりしてました。 不良ツールの販売店の割りに、店員さんが妙にスマイルで、ブティック並に接客が良かったのを記憶してます。
プラモだけじゃなく、ボードゲームやテーブルトークRPGなどのマニアックな商材を揃えており、なぜか本店と差別化が図られていた。 ここで買った一番の思い出の品は、100面体のサイコロ・・・・。 結局何の役にも立たないまま、紛失。
駅ビル、セゾン(ちなみに今のココロです。)の1階にあったおもちゃ屋さん。 スイッチを押すとビリビリするライターや、パッチンガムなど、普通のおもちゃ屋では売っていないような、ちょっと「(健全な)大人のおもちゃ」がいろいろと売ってました。 そういえば、マスカラスなどの覆面レスラーのマスクなんかも、かなり質の良いものが売ってました。 でも、なんて名前だったのか思い出せません。 誰か知ってたら教えてください。
長崎屋の中にあったレコード店です。 当時の音楽CDの販売における付加価値として主流だった、 「一枚買うとスタンプ1個、10個たまると500円割引」 というサービスに対抗してか、この店では、スタンプカードが無いかわりに、いきなり50円引きというスタイルでの販売でした。 当時の同級生であり、脱がせ麻雀のツワモノだったA君によると、 「ここでCD買って、ういた50円で、上の階のゲーセンで麻雀やる」 というのが、長崎屋の正しい利用方法だそうで・・・
「男子は、入っちゃダメ!」 という店。 何が売っていたのかは、今もって謎。
どちらかというと90年代初頭の思い出なんだけど・・・ 100円なのに、普通の店の3倍近くトグロをまいてるソフトクリームが食べれるお店。 たしか向かいに「たんぽぽ」という店があり、そことソフトクリームの大きさによる、激しい集客合戦を繰り広げていました。 原価度外視で集客合戦を繰り広げる様は、まさにデフレスパイラルの先駆け(?) けど、焼きソバなどの、他のメニューのボリュームの差と、おばちゃんのキャラクターで、ピーコックファンの方が多かったような気がします。
まだ、パソコンが一般的ではない頃、何やら畏敬の念をもって眺めていたのを記憶しております。 どう考えてもファミコンのゲームのほうがクオリティが高いのに、それでもMSXでゲームしているヤツは、妙に尊敬されてた。
コメント一覧 (6)
長岡は小さな町。市街地から少し歩けば農家の野菜畑がいっぱいありました。西新町だったら松葉、新保辺りからか。信濃川堤防下は畑が広がってました。中島、川崎、今朝白,新保も農地でした。今はみんな住宅地になってしまいましたよ。昭和40年代はじめ頃まではよく見られたのでは。「かあちゃん ナスいらんかね」「いいかぼちゃらいね、どうらろかね」とかの言葉が懐かしくよみがえりますいね。
大手通の十字路から北500mくらいのところが実家です。中島の現在の警察署そばに畑を持つおばちゃんAさんが来ていました。 東坂之上までリヤカーを引いて回っていました。リタイヤして30年経ち、すでにお亡くなりになりましたが、存命なら90歳すぎです。 夏はナスとトマト、枝豆も持ってきてくれたかな。3軒隣に来れば、長岡弁が聞こえてきました。「まいどー、あねさまなじら」という大声がまだ耳に残っています。
当時は山田町に住んでいました。この辺回ってたのは、おおばぁちゃんは〜左近の百姓らて〜って言ってました。
リヤカーはさすがになくなりましたが、軽トラに沢山の野菜を積んで来らる方はいらっしゃいます。 バイクに乗って枝豆を売りに来られるおばあちゃんもいらっしゃいます。 戦中を生き抜いて来られた方々のパワー恐るべし。
連れ合いの実家が川崎の農家、baaばあちゃんは90くらいまでリヤカーで振り売り(というらしい)してたよ。 小さい身体で遠くから見るとリヤカーだけが動いてるように見えたよ。 僕も横浜で野菜作っていて、余りを時々出荷してるよ。
長生橋にまだ歩道橋のないころリヤカーの後ろにつくと渡り切るまでノロノロ走りました対向車もそこそこあり追い越せず まあのんびりしてましたね あのころは