この場所の思い出
町々に子供がいっぱいだった頃。どこの町にもみんなが集まって遊ぶ場所が自然にできていた。女の子はパンツ丸出しでゴム跳び、男子はチャンバラと・・・・
町々に子供がいっぱいだった頃。どこの町にもみんなが集まって遊ぶ場所が自然にできていた。女の子はパンツ丸出しでゴム跳び、男子はチャンバラと・・・・
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日が暮れるまで空き地で遊んだ帰り道 道しるべは電波塔と水道タンクでした 遅くなると親に叱られて、泥だらけの手足を家の前の井戸で洗っていたなー
厚生会館の裏の公園。名前負けしていますよね。そこで高校の友達4人で撮った写真が今もあります。みんなミニスカートはいて…(流行でした!) その頃は健全な雰囲気だったけど今はどうなっているのかな?ワルイ溜まり場になっていないといいけど
私は団塊の世代の人間です。小学生の頃は子供の数がやたら多く、お寺や神社の境内はいつもにぎやかな子供達の声であふれていました。子供の遊びと言えば、秋はパッチ、春はビー玉でした。その後パッチやビー玉を見かけなくなってからずいぶん経ちますが、パッチやビー玉はいつ頃まで子供達の遊び道具だったのでしょうか?
柿の奥に「こども村」って名前だったと思うけど、旧車展示してたり、屋外で珍チャリやポケバイやATVで遊べる施設がありました。
物心ついた頃 町内はお店だらけでした 銭湯とか街頭テレビの人だかり 屋台の団子は最高でした
新町小学校正門からすぐの十字路の南東側角に阿部文具店という文房具屋さんがありました。 今はオシャンティーなおうちが建っておりますが、当時は木造のちょっとぼろいお店でした。店の広さは3畳ほど。子供が4~5人入ればいっぱいになりましたが、その狭い店内に文房具が並び、プラモとかおもちゃなども置いていました。また、ここのおばあちゃんが優しく、当時の小学生は阿部のばあちゃんと呼んで親しくしていました。 新町小の子は、学校帰りにノートや鉛筆を買ったり、ちょっとしたおもちゃなんかも買ったりしていました。 阿部文房具店の息子さんが私の家の隣に住んでいて、よくバトミントンとか一緒に遊んでいただきました。 懐かしい・・・
母親に外食に連れていってもらった時に当時食べたことがなかったナポリタンを頼んだら、味がいまいちだったのかテーブルにあったタバスコをケチャップと間違えてたっぷりかけて食べて泣いた記憶がある
階段を上がると、電車の模型のジオラマがガシャガシャと走り、レジの奥には「ディスクシステム」の書き換え機が・・・ 懐かしい、長岡のチビッコの夢の世界でした・・・
オシャレはよくわかんねぇけど、とりあえず「かあちゃんが買ってきた服だけは着たくねぇ!」 という、ちょっとシャレっ気の出てきた、小生意気な男子中学生が服を買いに行く店。 ちなみに、今はイーオンかなんかになってます。 わたくしも服買ってました・・・。
昭和40年までいた長岡でよく行ってた。毎日湯?という名だったろうか。袋町の横の小路にあった銭湯。前に稲荷神社があって春秋に祭礼の店が並んだ。小さな庭の池に鯉がいたかな。今どうなったろうか。
すずらん通りにあったころ お金もないのによく行きました。 眺めているだけで楽しかった。 ステレオを見ていつか買って思い切り聞くぞって思ってました。
コメント一覧 (9)
あお鼻をたらした坊主頭の小僧どもが多かった。学校から帰るとさっそく路地裏でゴムボールで野球。電信柱の一塁だけ。本ベースを木の棒で地面に描く。下駄やサンダルでやってた。ゴムでも結構ドロップやカーブもできた。舗装されてないから打った球が石ころに当たってとんでもない所に行った。
紙芝居屋がそういう場所に来てました。自転車の荷台に木の箱を乗っけて。水飴を薄い煎餅状の丸い板に挟んだのを売ってた。集まった子供らが舐めながら紙芝居を見ていた。カランカランと手で持つ鐘を鳴らして子供を集めてたかな? 月光仮面とかハリマオなど冒険活劇。団子屋も別の日に来てた。丸い団子を串にさしてタレを塗ったもの。こちらは蒸気でピーという音。今の焼きイモ屋に似てる。 テレビが普及した昭和30年代中頃までには姿を消して行った。
遊び場ねえ。道路、横町の細道、隣近所の空き地、お屋敷の庭、お寺や神社の境内、当時の大人たちはうるさいことは言わず、暖かく見守っていてくれたんだね。野良犬達も一緒になって遊んでいた。紙芝居は懐かしい。紙芝居屋さんのお菓子が不潔だといって母はおカネをくれなかった。お菓子を買えない私は、お菓子をなめている子供たちから一人離れ、遠くから指をくわえて紙芝居を見ていたっけ。雨の日は紙芝居屋さんが近所の医院の玄関で商売していたこともあった。今と違いみんなおおらかだっただなあ。
何といっても太子堂でのやっこいボール使っての野球でしょうか。たまにせきようでコロッケ買ってね。
稲荷神社の境内。周辺にポプラやイチョウの木があってよくのぼってたな。ポプラの枝でチャンバラ。枝の皮をむいて乾かしつるつるに磨いて剣にした。道路でやっこい球の野球。あの頃はコウモリが夕空に一杯飛んでた。遊びも流行があった。パッチン、ビー玉、コマ、ゴム銃(割り箸と輪ゴムで作る)、豆鉄砲(竹製で、あお桐の実を採って弾にした)みんなのをまねして自分たちが作った。犬もよくいたね。今は見ないスピッツはよく吠えた。野良犬も多かった。
公園も遊具も何一つなかったが子供はどこにでも遊びを見つけてた。空き地の原っぱや路地裏やいろんなところで遊んでたな。原っぱで靴べらを投げるとブーメランのように戻ってくる遊び、草むらでバッタを獲った。お医者さんごっこは残念ながらなし。ままごとにちょこっと入れてもらった。冬は家の前で雪の「要塞」を作って雪合戦。貧乏だからすべて凹凸のある自然構造(舗装道路やコンクリ建物ではないから)なので風や水が抜けて行き虫や植物など「いのち」が存在していてこれに触れることができた。大人たちも子供の遊びは大目に見ていてくれてたな。よそ様の敷地で遊んでても怒られなかった。 今のようにピカピカの物を何でも与えられる環境が人間にとって幸せなことなのか。
表町3丁目の今の駐車場当たりだと思うけれど「ジャングル」と読んでいた草ぼうぼうの空き地でよく遊んだものだ。例によって秘密の基地なんぞを作った。 小学校の高学年になったら市の雪祭りとかで雪像作りの会場になった。龍宮城から帰る浦島太郎の雪像だったが担任の先生が十日町出身だったせいか、素晴らしい出来栄えだった。
表町3丁目の今の駐車場当たりだと思うけれど「ジャングル」と読んでいた草ぼうぼうの空き地でよく遊んだものだ。例によって秘密の基地なんぞを作った。 小学校の高学年になったら市の雪祭りとかで雪像作りの会場になった。龍宮城から帰る浦島太郎の雪像だったが担任の先生が十日町出身だったせいか、素晴らしい出来栄えだった。
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